マトリクス・ランナウト(matrix / runout)

マトリクス・ランナウトとは
レコードの音溝が終わってからラベルに至るまでの、溝のない平らな帯を「ランナウト(runout)」、別名「デッドワックス(dead wax)」と呼ぶ。ここに刻まれた英数字や記号の列が「ランナウト刻印(runout etchings)」で、その中核にあるのが、盤の片面ごとに割り当てられた識別コード「マトリクス番号(matrix number)」である。番号は面ごとに別で、A 面と B 面で違う。
この領域にはマトリクス番号のほか、カッティング技師、スタジオ、製造工場の情報が、頭文字やロゴ、コードの形で含まれることが多い。ジャケットに印刷された品番とは別のもので、こちらは盤そのものに刻まれた製造の記録である。
刻印はどこから来るか
この帯は、最終工程でいきなり彫られるのではない。元をたどると、原盤を作るカッティング技師が、マスターテープからニトロセルロースのラッカー盤へ音溝を切るとき、その柔らかい面に手で番号を刻み込む。プレスされた盤の刻印は、音を最初にラッカー盤へ刻んだ段階を起点とし、その記録を量産の最後まで引き継いでいる。
そこから盤になるまでには、金属の複製が何段も重なる。ラッカー → ニッケルマスター → マザー → スタンパーというめっきの連鎖を経て、最後のスタンパーが加熱した塩ビを溝の形に押す。マトリクス番号には枝番(カット番号)が付く。ラッカーを切り直すたびに、この番号は動く。番号が変われば、原盤そのものが別物だと分かる。
刻印には、技師の遊び心が混じることもある。イギリスのカッティング技師ジョージ・ペッカムは、自分が手がけた盤のランナウトに「A Porky Prime Cut」と手書きで彫り込み、それが彼の署名のように知られた。製造のためだけの帯に、音をラッカー盤へ移した工程の情報が残っている。
同じタイトルでも音が違う理由
同じアルバムでも、プレスする工場、時期、原盤が違えば、ランナウトの刻印は変わる。刻印に会社や職番などの有意な違いがあれば、別個のリリースを示す。つまり刻印は、どの版(プレッシング)の盤なのかを言い当てる手がかりになっている。レーベルは刷り直され、ジャケットは入れ替わりうるが、デッドワックスの刻印は製造の出自に直接ひもづく。
ただし、刻印から版を読むのは厳密な科学ではない。同じランナウトを持つ盤が後から再プレスされることもあり、文字列が一致するからといって、まったく同じプレスだと言い切れるわけではない。版を確定するには刻印に加えて、レーベルの差、ジャケットの差、工場の識別子まで突き合わせる必要がある。
カット番号の若さと音質の関係
カット番号が小さい盤を「より原音に近い」「初版だから上」とみなす見方は根強い。だが、この見方は技術的には退けられる。音の差が最も大きく出るのは最終の塩ビ成形の工程で、電気鋳造による金属複製の精度は高い。スタンパー #24、マザー #5 から打たれた最初の一枚が、スタンパー #1、マザー #1 から打たれた千枚目より良い複製でありうる。番号の若さは品質を保証しない。
カット番号が #1 であることだけを根拠に初版と断じるのは疑わしい。再発のために切り直せばカット番号は #1 から振り直されるからだ。どのプレスが音として優れているかは、専門家の間でも見解が分かれる。
UK 盤二枚の枝番を読み比べる
同タイトルの UK 盤を二枚並べて比較する場面を想定する。A 面のランナウトは A-1、B 面は B-1 と刻まれていたが、もう一枚は A-2 / B-2 だった。A-2 は再カット(別ラッカー)を示す枝番であり、どの型の何世代目かを示すスタンパー番号とは別の刻印である。再カットのためにラッカーを切り直せば -1 から振り直されることもあり、番号の若さだけではファーストプレスとは限らない。
刻印から版を読む手順
ランナウトの刻印は、その盤がどの版かを教えてくれる。まずデッドワックスを斜めの光か拡大鏡で読み、A 面と B 面それぞれの文字列を写真に残す。ラベルのデザイン、品番、国表記と並べて、手元の盤がどの版に当たるか当てを付けてよい。
版の当たりが付いたら、静かなリードインと本編で試聴する。同じ刻印でもプレス工程のばらつきで鳴りは分かれる。若いスタンパー番号を当てに行くより、実際に針を落とした音を優先すればよい。
刻印の文字列が読めたら、手元の資料や版情報サイトで同じ文字列を探し、工場名や時期を確かめてみてよい。物理の手がかりを揃えたうえでの照合は、表記単体より頼りになる。
最後の判断材料になるのは、番号の若さよりも、その版が曲の各要素(ボーカル、リズム、空間)をどう鳴らすかである。